あの日、山形で私は、卒園式を間近に控えた二男と一緒にコタツに入り、長男(当時小2)の帰りを待っていた。
突然大きな地震が起こり、ずいぶん揺れていたように思う。二男をかばい、揺れのおさまるのを待った。電気が止まり、あわてて外に出た。上の階に住んでいた人と「すごかったですね」と話し、その後何をしたか、あまり覚えていない。
夕方になって、長男が学校から帰ってこないので、どうしたんだろうと思い、車で迎えに行ってみることにした。信号は全部止まり、危なかったが、道を譲り合いながら、ゆっくり学校へ行った。町がなんだか静かなような、騒がしいような、異様な胸騒ぎがした。
そしたら、みんな地震の後、すぐに迎えに来ていたらしく、長男ともう一人の子くらいしか、クラスに残っていなかった。長男は、「お母さん、もっと早くきてよ」と言った。ごめんごめん、心細かったね、と言って家に帰ると、アパートの隣のコンビニでは、自家発電の装置を駐車場で起動させていた。何か、わからないけれど、異様な雰囲気だった。
福島市の実家とメールでやりとりしたが、母は、外出先から家にたどり着くまで、タクシーがなかなかつかまらず、交通手段がなく、すごく時間がかかったという。そして電気も、水も出ない生活がしばらく続いたという。
山形は停電してから一夜明けて、通電したが、テレビをつけると、太平洋沿岸の衝撃的な映像が繰り返しながされ、私は震撼した。
そして、原発の爆発。
私は、子供のころから、地元にある原発が怖かった。いつか爆発するのではないかと思っていた。それが、現実のこととなってしまった。
それから毎日、津波や放射能の被害のニュースに震え、涙する思いだった。山形でも、買いだめを控えようと呼びかけられ、しかしガソリンスタンドなどはやはり、長蛇の列となっていた。
それから、宮城や岩手の知り合いにも無事かどうか、連絡をとり、不自由なところには、水や食べ物を送った記憶がある。福島の親戚にも、しばらく水や野菜を送った。
そんなことではどうにもならないくらい、予想をはるかに越えた甚大な被害であった。
山形にも、たくさんの避難してきた方を受け入れさせてもらっていた。驚くべき人数であったと思う。みなさんどんな苦労をされているか・・自分の幸せな立場を改めて思った。
あれから、もう6年なのか、まだ6年なんだ、と思う。大切な人を失くした人の気持ちには私など、到底よりそうこともできないかもしれない。放射線の被害も、風潮被害もまだ終わっていない。でも、忘れないこと、冥福を祈ること、復興のためにできることをさせてもらうこと、それをこれからも、日々の生活で忘れないでいたいと思う。
福島の浜通りを、何度か電車で旅したことがある。夜の森公園のさくらのトンネル、ずっと続く海岸。その後何度かテレビで見かけたが、今、どうなっているだろう。岩手の盛岡、三陸海岸も思い出の地である。
前とは少し変わってしまったかもしれないけど、いつか、またあの綺麗な景色に会いに行きたいと思う。