個人的な、ずっと悩んでいたことから解放された。ズンドコ・・じゃない、どん底を40年も味わってきた人間は強い。・・なぁんて、人と比べたことがないからわからないけど。
人の汚いところ、意地悪なところ、さんざん見てきた。その中で、数ある星の中で輝く一等星のように、ほんの少し、人間の優しさにもふれて、自分を保ってきた感がある。
今、じわじわと何かが変化しているのを感じる。もうそのことで悩まなくていい。
私は、なんだかんだいっても仕事を楽しくこなし、お客様に笑顔で接して、同僚と冗談を言って笑い合い、時にはねぎらい、この安らぎはなんだろう?と充実感いっぱいに一日を終える。
そりゃあ、小さいことを言ったらいろいろある。うつの治療も続行中。家庭や生活の不満も多少。
だけど、こうやって自分が自由になる、生きたいように生きられる最低限の権利が守られていることに、何事にも代えられない幸せを感じる。これは奪われてみなければ分からないことだと思う。失われた時間は惜しいけど、これからを生きればよい。
酸欠状態の魚も、それなりに水を得る未来を信じて、そのときそのときを一生懸命やってきた。特に子供二人を育てたことは、私の血となり肉となっている。
どん底を味わったせいなのか、長男が障害を持っていたせいなのか、私にはいつも「人生を楽しめればよい」という頭しかなかった。だから、子供に笑顔がないときはとてもつらかったし、いろんななだめ方をしたし、何度でも励ました。
子供に反抗期はつきものだし、それが成長の一過程だと思う。家の息子たちには殆どそれがない。二男が小学生の時、少しあったくらい。またはこれから来るのかもしれないけど。
あるとき中学生の二男がそのことについて、こう言った。
「反抗したり、汚い言葉を言ったりしたら、お母さんが傷つくんじゃないかと思って」
そんなに親に気を遣ってくれるのかー。
高1の長男に及んでは、未だに
「母ちゃ~ん!飯!飯まだ~?明日べんとうよろしく~。」というノリ。人懐こく絡んでくるのが少しうざいし幼いと思うけど、かわいいものである。
どちらも、今を一生懸命頑張っているようなので、言うことなし。これからも、自分を大切にしながら、楽しく生きる道を進んでいってほしいと思う。
子育てと言いながら、子供扱いせず、本音の意見を言ってきた。
子育ても終盤にさしかかっていると、なんとなく思う。それは、社会に出て、荒波に負けず、頑張れる子かという私の物差しから見て、そう思うからだ。
それから、人は一人では生きていけないことから、人に頼れる、信じられる部分がなければいけない。これは、長男の療育から学んだこと。けっこう目からうろこだったけど、今ではそう思う。
今の悩みといえば悩みなのだが、あがく必要がなくなり、子育ても一段落して、なんだか「写真撮りたい」欲や「山に登りたい」とか、出かけたい欲があまりなくなってしまった。落ち着いちゃったというべきか。
ペットを飼いたいでもないし、好きな芸能人の追っかけをしたいでも、ない。(そういう人をうらやましく思う)しょうがないから、少しずつ子育て中にたまった物の身辺整理とか、人間関係を取り戻すことをとりあえずしていきたい。
そして春になったら、あるいはまた外へ出ていく気になるのかも。
花が一面に咲き始めるころ、またカメラを持って、身も心も軽く行こう。
昨年のpic. 天童市運動公園