昨日は、仕事がとても楽しく思えた一日だった。お盆休みの前日で、残業はきつかったが、本当に楽しかった。こんなコンディションで、多くの日々を過ごせたらいいのに、と心底思いながら、車を走らせ、自分に合った仕事内容をこなしていた。
会う人会う人に笑顔で接することができ、ちょっとした会話を交わす。優しい言葉をかけて下さるお客様もいる。
『・・もしかしたら、私がこちらに営業しにくること、ダメじゃないですか?』
『これからも、私がこちらを回らせていただいても、構いませんか?』
そう思いながら、車で、自分の足で、最善を尽くしながら、走る。
会社の同僚と交わす冗談や、ねぎらいの挨拶。
笑ってほしいのは、自分のためだ。
少しだけでも、少しでも、生きる意味を見つけたくて、人の反応を見てしまう。
子供たちが、喜んで私の作ったごはんを食べる。大したものは作っていない。
「どう?これ」
と聞くと、息子が親指を立ててうなずいた。
大好きな人が優しかった。
澄んだ優しい声で、優しい言葉を。
眠りに落ちるまでささやいてくれた。
私は存在していいのか、わからないからこんな幸せのかけらを集め、懸命に答えを見つけようとしている。
いや・・駄目なら駄目、そう、いっそ言ってくれてもいいんだ。。
とてもつらい時、そんなことに思いを馳せる。遠く甘美な誘惑。
私には重すぎる十字架。
今も生きていていいのか、自問自答し続けている。死ななきゃ治らないであろうこの病。
希望を持ち続けた時期は過ぎ去ろうとしている。今まさにどちらに転んでも不思議はない。しかし私を引き留めるものも、幸か不幸か存在する。
そんなとき、私は涙にくれながら、そのまま生きなければならないのだが、脱力したまま生きるのも、不思議と続かないのだ。どうして生きるのか、心は答えを見つけたがる。
前に書いたような気がするが、この十字架が、私が背負うことによって、他の大事な人が背負わなくてよい、そういうことであれば、しかたないと思う。今のところ、そう思うことによって、私の生きる意味が生まれる。
幸せのかけらが、どうしても見つからない日、そんな日は・・
そんな日は、考えるのをやめよう。
何もしないでいい。
それくらいの休息があってもいいはずだ。
私が考えられるのはここまで・・
営業先のギャラリーで。社長さんがカメラが趣味らしい。
乞うことができるなら。誰にでもいいから、答えを持つ人に教えを請いたい。
自分と同等のことを味わった人や、それに思いの馳せることができる人に。