雨 ときどき晴れ☀

~鬱と発達障害とつきあう日々~

母との確執の末

 

 実母と私の関係はとても微妙である。私は小さい頃、母が大好きだった。母にも愛情があったと思う。しかし、表現がいささか下手で、コミュニケーション下手、だったのではないかと思う。ヒステリーな部分を時には見せられ、いきなり暴言を吐かれたり、からかわれたり、(母に言わせれば、すべて愛情表現だったのだろうが・・)機嫌が悪いと台所で大きな音で威嚇したり(現在では虐待の一種といわれています)、子供心にいつも嫌な思いをした。

 だから、母に全面的に甘えることは、早くからあきらめていたように思う。反抗したし、距離を置いた。少なくとも幼稚園時代までは、私は体が弱く、母はその世話で大変だったようで、それには感謝しているが・・。

 

 私の父は小学校教師であったが、私が小1の時に、転勤で、それまで住んでいた田舎から、福島の町に引っ越した。田舎ではのんびりお転婆をしていた私だったが、福島に引っ越した途端、何かががらりと変わってしまった。せわしない町中の小学校に勤めるということは、結構大変なことであり、父に悪い影響がないようにと、娘の私の行動にもピリピリし始まったように思う。「〇〇先生の娘が、何をした、どんな子だ」などということは、噂になってはいけないし、できれば、作文で賞をとったとか、絵が上手い、頭が良い、などという評判であってほしいわけである。

 小3の時から、私には大きな悩みがあった。それは生活の質を下げ、子供ながらに人生をとても生きがたいものにしていた。仕方なく母に打ち明け、相談したが、あまり良い反応がなく、どちらかというと「面倒くさい」と思われたようだった。

 親に相談してもだめだ、と感じ、専門の医者や、保健所、民間医療に助けを求めた。手術もした。手術は親の協力が必要だったが、「必要があるのか」と疑問を持たれた末やっと許してもらえた感じであった。

 手術は成功したが、根本の解決にはならず、以後最近までずっと悩むことになる。中学生の時、人間関係が上手くいかず、悩みも深く、学校に行けなくなった。母に「行きたくない」というと、「絶対だめだ」の一点張り、理由も聞いてもらえなかった。

 それからは、死んだようにやっと生きる、そんな毎日であった。

 就学、就職、食べる、寝る、希望のない自分を励まして生きる。すべてが大変だった。

 それが40年近く続いた。よくプライドもなくして生きたと思う。

 

 

rtaroyma.hatenablog.com

 

 

 悩みが解決した時、解決して、人生が回り始めた時、この嬉しさを誰にも言えなかった。ブログに書くしかなかった。でも、頭をよぎったのは母の存在。

 私がもし母親の立場だったら、子供が長いこと悩んできたことがあったならば、同じように、いや、それ以上に苦しむだろう。もし、解決した暁には、ぜひ教えてほしい。一緒に喜びを分かち合いたい。そう思う。

 だけど、家の母は、どんな反応を示すだろうか?面倒くさい娘、そう思っていたかもしれない。もう手を煩わせないでほしい、と思っていたかも。

 だとすれば、「あっそう。まだそんなことを気にして悩んでたの」と一蹴されるかもしれない。そんな悲しい反応を今更わざわざ見たくはない。傷つくのが怖かった。

 

 

 そんなことを思って幾日も過ぎた。

 今までどん底にいた私の毎日は、ちょっとしたことで、キラキラ輝いていた。

 自分に少しずつ自信もつき始めていた。

 思い通りの母がなくても、そんなものにすがらなくても、なにがなくたって、もう自分で生きていける。

 どんな反応をしたっていい。話してスッキリしようと思い、母に電話をした。


 私の息子たちには、よく祖父母に電話をかけさせる。孫からの電話の方が喜ぶと思うからである。

 なので、私から母にかけるのは、何年振りだろう。



 

  

 ・・・

 母は、泣いてくれた。

 親として接し方が至らなかったと、謝ってくれた。

 少しとんちんかんなことも、相変わらず言っていたけども。もういい。

 

 私も、「母の方が苦しかったよね。40年もごめんなさい」と謝った。

 私だって、子供がこんな思いをしたとしたら、生きていられない、代わってあげたいと思うだろう。

 だから、結果私でよかったのだ。

 

 母も、変わった。

 時は、良い方向に事を変えてくれることがあるものだ。

 だから、生きなきゃ、わからないんだ。

 だから、これからも、良いことがあると信じてがんばっていこう。

 うまくいかないことも、何か意味があるはず。

 ありのままを受け止めて、笑って生きて行こう。