雨 ときどき晴れ☀

~鬱と発達障害とつきあう日々~

どうでもいいこと

 

 多くの人は奥ゆかしく、礼節をわきまえ。

 いや、大人の癖に大人ゆえ人見知りが激しく、他人の前に出ることを恥じ、誰も突破口を開こうとしない。なんだこのダサい空気は、と同じダサいなら話題を振ってやろうと、一言二言明るい発言をする。ここに来るまでの天候から街の様子、自分に起こった面白エピソード、失敗談を喜ぶ人もいるし、皆さんどうでしたか的な質問風で、後の会話が続くものをぶっこむ。決して利口そうにお上品にを心掛けない。場合によってはそうするけれども。フランクでへりくだり、いっそ東北弁ちょい出しでもいい。

 すると、次第にあちこちから言葉が発せられ、近くにいる人同士であったり気の合う人同士でぺちゃくちゃと会話が始まる。彼らは案外、人見知りではないのだ。

 

 よくある風景。職場でも、何かの集まりでも、そのちょっとした空いた時間。周囲にいる人達とどう過ごしますか?

 私は、根っからの休み時間・お昼時間恐怖症で、その時間を人と過ごすのが嫌で嫌で、仕事選びも、できれば時短で、お昼がっつり皆と食べなくてもいいようなものをなるべく選んできた。もしコロナ禍でなかったら、今だったら全く違う選択をしたかもしれないけど。

 

 

 

 最初の数行の風景は、

 これは、何年か前の、ある子育てサロン的なおしゃべり会の模様でもあった。良いイベントだからと、心理学の先生がバックアップしてくれ、場所や備品を無料で貸して下さったり、プチ講演をしてくれたりもした。

 

 一応場を盛り上げた?訳の分からない達成感を、同じ裏方スタッフ気質の仲間うちでアイコンタクトを取る。取ったつもり。

 スタッフ内でも、「彼ら」に近い人達もいる。そういう人達には、途中からその輪の中に入ってもらい、「共感力、傾聴力」を生かして、一緒にお喋りしてもらう。苦しさを吐き出して心地よくなり、笑顔が見られて、お開きになるまで。

 

 このようなことを、自分が関われるとは思わなかったが、やりたかったし、元々の夢が喫茶店のマスター的人物であったり、食堂か何かの話しやすいおばちゃんであったため、会のために備品を調達したり、お茶の用意をしたりするのもとてもやりがいがあった。心理学の先生に「りょうたろうくんのママが一番生き生き働いている」と言われた時は、裏方なのに見つかってしまった妙な気まずさがあった。

 

 こういった達成感は、昔々からあったものではない。

 まずお喋りが達者ではなかった。やっとだんだん喋れるようになってきた感じ。

 さらにどちらかというと、盛り上げた後、自分はぽつんと孤独になってしまう妄想や嫉妬があって、悲しくなることもあった。

 長い間、あまりよろしくない稀有な経験を積んでいるので、自分の性格がねじれてしまっているのは分かっている。それでもどうにか普通でいたいという無意識があるらしく、素敵な人や尊敬する人がいれば、その考えに近づきたくなることもある。

 そういう時は一周回ってまだ残っている欠片の一部分で共感しているような気がする。しかし、正統派のきちんとされている常識人には、やはりどこか違うと見抜かれて、嫌われていると思う。

 だからといって、どうこうすることはできないし、こんな感情は宇宙の塵のごとしで、いつかはこの世から消える。

 

 ごく少数ではあるけれど、自分を気にかけてくれる人、何故か慕ってくれる人を思い出して、踏みとどまってるのだろう。

 

 世話をしても何も返さない人もいるし、働きやすいようコミュニケーションをとれば勘違いして図々しくなる人もいる。

 期待などしてない。そうではない人と出会えただけラッキー。いい距離を取りつつ関わっていくだけ。