雨 ときどき晴れ☀

~鬱と発達障害とつきあう日々~

楽になる兆し

 

 電子レンジがバチバチいって壊れてしまったので、新しいものを買いに行った。

 出費は仕方ないのだが、それよりも億劫なのは入れ替えだった。たかが入れ替えなのだが、レンジの上のちょっとした隙間にも皿などが置いてあったり、古いレンジを取り去った後の掃除が大変だろうなぁ、と重い気持ちになった。

 

 とりあえずレンジまわりの物をどかし、レンジを抜き去り、台の掃除を始めたが、その一角だけではなく、やはりその台全体のそうじや整理整頓にも及んで、ちょっと大掃除ぽくなっていった。

 探していたFPのおろしカッターが見つかったり、使いやすい収納に変えてみたり、要らない物を捨てたり活用したり、遠回りしながらもだんだん楽しくなってきた。

 

 途中、主人が夜勤明けで帰って来て、朝ごはん兼昼をテレビを見ながら食べて、終わると二階に上がっていった。会話を少しするも、その背中を見ながら、子供が小さい時も、こんなふうに背中を向けていたのを思い出す。まぁ、この人はこうして家事や育児をずっとしているのを何も感じないで、当たり前の一風景だと思っているのかしら。そう何度となく思ってきたけれども。

 ある意味関わろうとしないで、十分すぎる時間が毎日あるのもかわいそうかもしれないのだ。とか、私はそういう風には生きない、とか考えて20年近くが経つ。

 

 さて、電子レンジの漏電防止の電線を処置して、電源を入れ、終了。

 こういうことは、主人に頼んでやってもらう方がいいと私も思う。だが、漏電の電線を差し込むネジ式の所をドライバーで回しながら、プラスドライバー2本あるけれど、ピッタリサイズの方をちゃんと使ってくれるかが心配である。

 めんどうだからと力で回したはいいものの、ネジの+部分が、丸く削れてしまったら、逆にめんどうが増える。そうしたことでガッカリしたくないので、今までの経験上からも、あまり物を頼まなくなってしまっている。

 それでも、あまりに忙しいので、買って来た時にレンジが包装されていた、発泡スチロールを細かくしてプラスチック用のごみ袋に入れてもらい、段ボール箱は潰してビニール紐でくくってもらうことにした。発砲スチロールは、まさかの手で割ったりされると、細かいカスが散らばるだろう。それを掃除するのは期待できない人だ。

 カッターに新しい刃を入れて、置いておいた。とりあえず、私が昼寝から起きるとやっておいてくれたようだった。次の日高校生息子のプリントのキリトリ線部分をカッターで切ろうとしたら、一番根本の所で折れていた。

 段ボールくくりは紐がユルユルだったので、あと4,5枚は斜めから入れられるだろう。

 まぁ、折をみて思い出したら話すかもしれないし、ゆっくり習得してもらったらいい。

 

 そんなわけで、自分の家庭については、期待もせず、基本何も思わない。これでいいのだと思う。

 私だって、至らないことが多いし、具合が悪い時も、無いことにはされたけれども、レベルの高いことは求められなかったし、許してもらっているのだ。だから、満足とはいかないまでも、苦しみではない。

 家族は守っていくもので、自分の不満は自分でなんとかしておく。

 悲しみは外で友達なりに聞いてもらったり、そうでなくとも友達の優しさは、会うだけで元気をくれるものだ。

 

 

 長々と書いて来たけれど、自分の家庭はこんなもので何も感じないが、(というと語弊があるのかな)社会的な出来事、例えば戦争であったり、貧困問題であったり、格差社会であったり、日本の少子化であったり、その子育ての中身であったり…

 そういうものに、なぜか「良くする」ことへ強く気持ちが向いてしまい、どうにも出来ない部分もあるのに、やきもきして疲れてしまうのを繰り返していたように思う。

 

 先日、ある研究者であり大学教授の人が、

『人間はたかだか地球の長い歴史の中、ほんの一瞬出現しているものにすぎない。いつ滅亡しても不思議ではないし、滅亡してもいい(仕方ない)のではないか、と思う』

と仰っていた。

 私の中にそういった選択肢が今までなかったので、最初は唖然としたが、日を重ね、そう考えれば考えるほど、心が静かになるような気がした。

 

 たまたま私は子育てを通じて、幸せな思いを経験させてもらった。子供を連れていることで、温かい声をかけてもらったり、社会に引き寄せられたりもした。

 しかしながら、子供が好きであるなしから、それぞれの得意不得意を含めて考えて、もちろん子供を持ちたくない人も一定数いるだろう。もしかしたら、そちらの方が多数派になっていくのかもしれない。

 そういった流れは自然のことであり、子供を持ちたい人もまた一定数いるだろうけれども、選択の自由はそれぞれである。少子化になっていくなりに、社会の方を整備し、見合ったものに改善していくしかない。

 何が豊かなのか、豊かにならなければならないのか、豊かになれるのか、自分なりに自問自答していくのだろう。

 

 自分で命を絶つこと。一件一件がすべて異なる人生の上にある。結果として事故性の濃いもの、病気によるもの、望んだもの、そうでないもの、命をかけて伝えたいメッセージがあったもの。どれもその人の人生や運命で、せめて生きているうちの断片的なものでしか、人はその人を理解することはできない。

 

 社会に対して無関心になっていくのではない。そして、できる範囲の努力はしたい。

 けれども、「そうなっても仕方ない」という柱を1つ増やすだけ。

 それによって心が少し軽くなる。自分を守り、心身の健康を維持するのも大事だ。

 

 考えは移ろえど、今日はこの辺で。

 

 

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